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ゼロから学んだ『資本論』 成長の限界と使用価値の復権

4月21日、週刊金曜日「論考」 に掲載のA.Niwaさんの投稿です。

いま起きているのは、食料の使用価値の復権であり、それは地球の限界を意味する

かつて日本の多くの大学には教養部があり、そこにはマルクス経済学の講義があった。商品、労働、貨幣、そして労働価値説と、入門講座ではあったが、私も一通り学ぶことができた。経済の語源は経世済民にある。利潤の追求よりも労働の価値を重視する価値観を得たことは大きな収穫であった。

暮らしを豊かにするのは使用価値、交換価値ではない

ところが最近、斎藤幸平氏の経済思想に接し、私が大きな誤解をしていたことに気付かされたのである。たとえば1パック150円の卵が300円に値上がりしたとする。この時、値段が上がったからといって卵の栄養が高まったわけではない。マルクス経済学では、卵の値段を交換価値、栄養など食糧としての卵を「使用価値」と呼んで区別する。交換価値は上がったり下がったりするが、長期的に見た場合、重心点に平均化される。この交換価値の重心点を「価値」と呼ぶのである。

価値は需要と供給によって決まるように見えるが、実は商品の価値をつくり出しているのは労働力である。需要の高まった商品に多くの労働力が供給されることにより、その商品の価値を高めているのだ。

ここで私が誤解をしていたというのは、重要なのは商品の価値(卵の値段)であって、使用価値(卵の栄養)ではないと思い込んでいたことだ。なぜならお金になるのは商品の価値であり、使用価値ではない。しかし、よく考えてみると大切なのは卵の値段ではなく卵の栄養である。つまり、暮らしを豊かにするのは商品の価値ではなく使用価値なのだ。

エッセンシャルワークとブルシット・ジョブズ

コロナ禍において、エッセンシャルワークの重要性が再認識された。医療、保育、教育などの労働は人間の幸福に直結する。それは労働力の使用価値であり、お金の問題ではない。これとは対照的に広告などサービス業は、価値は高いが使用価値は極めて低い。また、ブルシット・ジョブズと呼ばれる「クソどうでもいい仕事」に対する疑問も、使用価値の観点から説明することができる。つまり、これらの仕事には使用価値がないのである。

資本主義に包摂されると、いくらお金があっても足りない

かつては資本主義の外で暮らす人々がいた。ラクダに乗ってサハラ砂漠に住む人びとやモンゴル草原の遊牧民などである。日本でも、食糧を自給する農家や大学で自治を守りながら研究する教官らは、価値を求めず生活の一部を資本主義の外において暮らしていたのではないか。21世紀となり、砂漠や草原に都市がつくられ、日本の農家は農業だけでは暮らせなくなり、大学には自由よりも研究費を欲しがる教官がいる。まさに資本主義に包摂される世界である。

ところが今、気候危機と戦争により、世界的な食糧インフレが起きた。いくらお金があっても足りない時代の始まりである。そして、それは食糧の使用価値の復権であり、資本主義の成長が地球の限界に達しつつあることを意味している。