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書評:斎藤幸平『人新世の「資本論」』

人新生の「資本論」(集英社新書)

A.niwaが書きました。

若い頃、商品の価値論を学んだとき、商品の「価値」が本質で「使用価値」は重要ではないと思い込んでしまいました。なぜなら、お金になるのは「価値」だからです。

しかしよく考えてみると、生きるのに必要なものは「使用価値」です。こんな当たり前のことに気づくことができたのは、斎藤幸平さんのおかげです。次の記述は印象的です。

「これまでの議論をまとめておこう。コモンズとは、万人にとっての「使用価値」である。…したがって、価格をつけることもできなかった。」p250

下記の書評が、 12月4日週刊金曜日論考に掲載予定です。

人新世の新しいマルクス像と脱成長コミュニズム

マルクス経済学を学ぶ時、避けて通ることができないのが史的唯物論である。それよれば、人類の歴史は生産力の量的増加に伴い封建制社会、資本主義社会と質的に変化したとされる。そして社会には階級が存在し、資本主義において労働者と資本家は対立する階級であり、資本主義は階級のない共産主義へと発展することにより、社会の矛盾が解決されるというのである。

しかしながら、次のような疑問を感じる人もいるのではないだろうか。労働者が主役となる共産主義社会において、なぜ階級がなくなるのだろうか。新たな権力階級が生じることはないのだろうか。また、環境問題が深刻化するなか、労働者が主役となる社会が実現したとしても、それだけでは問題の解決にはならないのではないだろうか。

経済学者斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』によれば、なんとマルクス自身が史的唯物論に疑問を感じていたことが、MEGAによる新しい『マルクス・エンゲルス全集』により明らかになったというのである。資本論2巻、3巻がマルクスにより完成されなかったのはそのためである。

マルクスが理論的な大転換をする直接の契機は生化学者リービッヒの「掠奪農法」批判であった。それは人間の過剰な消費により土壌がやせ衰えることを警告するものである。当初、資本主義がもたらす生産力は人類の開放をもたらすために必要不可欠であると思われた。しかし、資本の価値増殖が「人間と自然との物質代謝」を攪乱し変容する。化学肥料、品種改良、遺伝子工学など科学技術により問題は解決されたように見えるが、実は問題の先送りに過ぎない。150年も前に、マルクスは現在の科学技術の限界を見抜いていたのである。

さらに、生産力至上主義による単線的な歴史観はヨーロッパ中心主義と言わざるを得ない。はたして全人類の歴史に適応できるかは疑問である。「生産力至上主義を捨てるなら、生産力の高さは、歴史のより進んだステージにいることの証明にはならない。破壊的技術だけを発展させても、意味がないからである。…晩年のマルクスは、進歩史観そのものから決別せざるを得ない。史的唯物論はすべてがやり直しとなるのだ。」(人新世の「資本論」p166)

斎藤幸平氏が主張するのは脱成長と平等からなる「脱成長コミュニズム」である。地球は一つであり、気候危機に逃げ道はない。それゆえ「最終的に自分自身が生き延びるためにも、より公正で、持続可能な社会を志向する必要があるのだ。それが最終的には人類全体の生存確率も高めることになる。」(p112)そのためには万人にとって生活に必要なコモンを水や空気のように「使用価値」として共同体で管理する必要がある。

社会が大きく変わろうとするとき必要なものは哲学である。脱成長は人新世の新しい哲学となるであろう。