緑の党・東海

お母さんたちの命を守る運動

政治の高慢と国民の屈辱

緑の党の会員の丹羽淳さんが
8月28日発売の週刊金曜日に下のエッセイを載せました。

【政治の高慢と国民の屈辱】

 「国民のorgueil [高慢]を増長せしめた人々を呪ふ。すべての不幸はこれに発する。」これは仏文学者渡辺一夫の敗戦日記の一節である。戦後70年を経てアベノミクスの経済政策が進むなか、新たに二つの高慢が台頭しようとしている。

一つは原発再稼働という高慢である。原発がつくりだす電力はその時代にすべて消費されてしまうが、高レベル放射性廃棄物(核分裂生成物)とプルトニウムが核のゴミとして残る。生物と放射能は共存できない。これは自然の摂理であって、いかに科学技術が発達しても生物と放射能が共存する社会をつくりだすことはできない。理由は何であれ一度放射能が漏れ出したならば逃げるのは人間である。原発は放射能という借金を孕む不完全な技術なのだ。お金の借金ならば踏み倒すこともできるが、放射能という借金は踏み倒すことができない。この先、核のゴミの処理という何の価値も生み出さないシーシュポス労働に果てしなくお金を払い続けねばならないのである。

福島第一原発の事故が起きたその年、事故からわずか9か月後、民主党野田政権は原発事故の収束を宣言し、翌年国民の世論を無視して大飯原発の再稼働を強行した。代々木公園で開催された「さよなら原発10万人集会」において大江健三郎氏は「私たちは屈辱の中に生きている」と訴えた。政権交代の後もこの流れは自民党安倍政権に受け継がれている。安倍総理は日本の社長にでもなったつもりなのだろうか、「給料を上げてやるから働け」と言わんばかりである。政治の高慢と国民の屈辱、昨年末のアベノミクス選挙の低投票率は政治と国民の間の溝の深さを示している。

もう一つの高慢は解釈改憲である。米国議会において自衛隊と米軍との協力関係強化を約束した安倍総理は、安保法案の成立を急ぐのか、思わず「早くしろよ」と口走ってしまった。その国会では三人の憲法学者が「集団的自衛権は憲法違反」と断言したにもかかわらず、自民党はこの提言を無視、安保法案は衆院を通過してしまった。どうやら安倍総理の頭の中では、戦争とはケンカや火事と同じようなものであるらしいということは国民にも良く理解できたが、こうした非立憲的な手法に主権者として黙ってはいられない。列島各地で安保法案に反対する市民集会やデモ行進が巻き起こっている。

情けないのは報道機関である。なぜなら報道機関は騙されることにより国民を騙すからだ。次世代の人々が原発再稼働と安保法案という高慢を呪う日が来るのではないだろうか。この二つの高慢をなんとしても廃炉、廃案とし、武力を用いない平和という憲法の理想を守り抜きたいものである。

丹羽 淳